2019年11月17日・礼拝メモ
コリント人への手紙第一 1:18~31節
「宣教のことばの愚かさを通して」
「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」(コリント人への手紙第一1:27)
はじめに
今日は宣教聖日です。先週は蔦田康毅先生を迎えて豊かにグローバルミニストリーのビジョンを語って頂きました。
- 今日開きました聖書の箇所は、私にとって思い出があります。それは天国に召されました国光畿代子師が開いて下さったからです。とても自分は伝道者としてやっていけない様な壁にぶつかって、先生にその胸の内を漏らした事がありました。そこで先生はこの聖書のことばを示して励まして下さった事です。(コリント人への手紙第一1:26~29)
- 「十字架のことばは、滅びる者達には愚かであっても、救われる私たちには神のちからです。」もし「旧約聖書を一言でまとめて下さい」と言われたら「モーセの律法」と言えるかもしれません。モーセという偉大な人物とそれを取り巻くすべてを含めてです。新約聖書を一言でまとめたらどう言えるでしょうか。「十字架の奥儀」と言えるかもしれません。日本を駆け巡った、本田弘慈師は「新約聖書は十字架の奥儀の書」と言う事を悟った。奥儀とはその教えの深さ、表面的には何度も何度も繰り返されて、その深みを増していく、神の神秘を表している教理の事です。
- 福音は落とし物(御父の天からの莫大な贈り物)福音を受け取る方の私たちには、気がついたらびっくり仰天するような拾い物です。正気でいられないほど、ありがたい賜物。ご一緒に考えて見ましょう。価値の大きさを知る手がかりがありますので(ピリピ2:6~11)を開いて見ましょう。七重のへりくだりと無限の高揚、それは信じる私たちの生き様ともなって、この世において、更に永遠(神の御国)において価値高き賜物です。