2020年04月05日・礼拝メモ
他人は救ったが、自分は救えない
聖書箇所:マルコの福音書 15章 21~41節
コロナウイルス感染防止のために世界中が躍起になっています。感染防止に気を配りながらみ言葉に心を向けて参りましょう。今日のみ言葉は十字架に付けられたイエス様に、罵声を浴びせた人々の言葉の中から語られています。それは十字架が何を意味しているかということがよく表現されています。
- 十字架は肉体的な苦しみだけでなく、社会的人間としての、また霊的な意味の苦しみ「侮辱」を味わわれた。神の御子に対するこのような「侮辱」は肉体的な苦痛以上のものであった。クレネのシモンも主と共に、十字架を背負わされた。しかし彼は、無理矢理に十字架を背負わせられたが故に、イエス様を信じるきっかけとなった。主は御受難の中で「他人を救った」。
- 神の御子としての権威を用いられなかった(矛盾のように思われるが、真理であった)・・・イエス様は罪なきお方でご自分を救うことのできる方、十字架から降りることのできる方、しかし、十字架の刑にとどまられた。ローマ総督ピラトも裁判に当たりこの人には罪を認めることができないと直感した。赦して釈放しようと、イエス様の口から言葉を引き出そうとしたが、主は無言を貫かれた。
- 「十字架上の主は神の御子であると信じる事」が祝福の原点となる・・・「十字架から降りてもらおう、それを見たら信じよう」ではなく、苦しみを忍び、神の贖いの成就の為に十字架の死まで従い通された方。御父の遣わした御子の十字架を仰ぐ事が信仰の基本・土台である。「見ずして信じる者は幸いです。」神の御子の十字架を信じましょう。