2025年05月04日・礼拝メモ

喜びが満ちあふれるため

聖書箇所: ヨハネの手紙第一 1章1~10節
序 ゴールデンウィーク、コロナを越えつつ、人々は交わりの幸いを覚えている。本日は、最も幸いな交わりについて語られています。記者ヨハネは、いのちのことばなる方(イエス・キリスト)について、実際、見聞き触った方を証詞(伝える)あなた方も同じ交わりを持ち、喜びが満ちあふれるため。
Ⅰ光である方との交わりに入る・・・私達は救主キリストを信じた時から主と呼び、アバ父よと呼ぶ方との交わりに入りました。信仰者の生活は、光の神との交わりに生きる生活です。神は光で闇が全くない方なので信仰者は闇から光へ罪の支配から神の支配へと移された者です。けれども「神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるなら偽り・・・」とある。後ずさりするような信仰生活、神のみことばと実際生活に大きなギャップを感じる事は?神との交わりの中で光に照らされ、汚れが解る光の子として歩もう。
Ⅱ御子イエスの皿により、きよめられる – 救い(罪の救い)は罪からの解放ではなく、罪を繰り返す可能性はある。光の中を歩くことが、良き交わりと、きよい生活を保っていく秘訣でありますが、きよめの条件は光の中を歩く事ですが、きよめの手段は「御子イエスの血」によるのです。キリストの十字架は罪を贖うためではなく、きよめるためでもある。信仰者は不信仰の悪しき罪や不服従やこの世の常識、判断に陥りやすい。犯した罪は赦されるが、罪を犯す性質はきよめられるのです。光に照らされると、自分の罪、汚れに気付かされ、うなだれるけれども、キリストの血が例外なしにきよめて下さる。そのきよめに授かる条件は
Ⅲ罪を認め、罪を告白する・・・神様は人が罪を言い表して神様に立ち返る事を望まれる。自分に罪がないと言い張る者は自分自身を欺いている。真実ではない。きよめられる事はない。人は、自分を守ろうとし、悪いのは他人だと転化する事が多い。(アダムやエバも)「その罪を隠す者は栄える事がない。言い表し、これを離れる者は憐みを受ける」のです。ダビデは罪を告白し、罪の咎を赦された幸いを歌っている。罪がきよめられたら真の喜びに満ち溢れた日々を送ることができます。不平不満、不安の心から平安と喜びに満ちた者となる「御子イエスの血がすべての罪からきよめて下さる」その信仰に生き続け、勝利ある歩みをさせて頂きましょう。

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