2025年01月26日・礼拝メモ

僕としてのキリストの謙遜

聖書箇所:ピリピ人への手紙2章1~18節
総会を越えて、新しい一年の福音の働きが始まりました。今年も心を込めた伝道活動の一年でありたい。主に在って、その為の計画を進めたい。
ピリピの教会は伝道者パウロが誇りと思っていた教会の一つであった。この書には、16回の喜びが書かれています。今日の主題は、「従順になり、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(ピリピ2:12)です。イエス様は、御子であられたのにもかかわらず、この世の犯罪者のように刑罰を受けられたのです。持てるすべてのものを奪われ、十字架に向かわれました。「人間は死にて自然の大地に帰るという動物ではない」霊的な生き物である事を覚える。
人間は火葬して、最後の骨を拾って、壺に納めてお墓に埋葬しますが、よみがえりの朝に、その骨が、どのように復活の体に変わるのかは、詳しくは聖書に書かれていませんが、イエス様の脇腹に手を入れたトマスは、私達に希望を与えてくれた。疑い深いトマスが復活されたイエス様の脇腹に指を指し入れて確かめた事は聖書が証言しています。十字架につけられた犯罪人の1人がイエス様に思い出して頂けるだけでも心が癒される事であった。この犯罪人は人に失望しきってきた。「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」とは、目の覚めるような希望を持てる救いの言葉だったに違いない。また、人生の最後に、このような言葉がかけられるとは思わなかった。イエス様は十字架上でこの命のあることばをかけられた。ああ、主の十字架は、失望のどん底から救い出す言葉です。6~11節は初代教会の合い言葉のように用いられていたようです。イエス様のへりくだりは測り知れないものです。7~8節は、人間と同じようになられた。「自分を空しくして僕の姿をとり、人間と同じようになられました。
更に「それも十字架の死にまで従われた。それゆえ、神は、この方を高く上げて、すべての名に勝る名を与えられました。」注ぎ出された血潮は動物の血ではなく、パウロ自身の血潮です。その痛みや辱めは、パウロの注ぎ出した命そのものです、キリストの謙遜に応えて伝道者パウロも、喜びを持って仕え続けた姿がうかがえます。更にピリピの人々にも「私は喜びます。あなた方すべてと共に喜びます。」同じように「あなた方も喜んで下さい。私と共に喜んで下さい。」(2:17)イエス様に倣い、自分を献げたパウロの姿にとても感動したことです、自分をこれほどまでに、献げ尽くしたパウロを思い、この年は進み行かせて頂きましょう。

 

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