2021年08月29日・礼拝メモ
パウロの証し:この方こそ神の子
聖書箇所「使徒の働き9章19~30 節」
先週は明確なパウロの回心についてのメッセージでしたが、今日はその回心の意味を考えてみましょう。
- 1)神の臨在に触れた事 キリストがどのような方であるか、その本当の姿に、ふれた時、自分の実質もはっきりと見えて来ます。神でなく他人に目を向けている限り、不安定な判断基準で自らを眺める事から抜け出しません。パウロはそのような神の御前に出て本当の自分が何者であったのかを悟る事ができたのです。私たちの救いの体験は神の臨在意識と深い関わりがあります。
- 2)福音の負債感(恩寵感) パウロの回心とその奉仕に対する姿勢を考えると深いつながりがあります。「ところが 神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならす、私は他の全ての使徒達よりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともあった神の恵みなのです。(Ⅰコリント15章10節)」パウロの奉仕の源泉は神の恵の偉大さへの感謝によるものであったのです。
- 3)パウロの霊的開眼 自分が迫害しているその御方に直接触れて投げ倒された事。この特別な顕現は、主が復活されたという事実がはっきりとわかったのです。そして、彼の旧約聖書で養われた神知識に火が付き燃え始めたのです。彼のダマスコ途上の回心体験は生ける復活の主との対面であった。この事で彼の霊の目が開かれました。そして最後にキリストの十字架についての誤解が解けたのです。それは全ての人が罪を犯したからだ、と言う事です。敬虔なパリサイ人であったパウロにとって、これは衝撃的な事実でした。信仰によって生きる人が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受ける。「義人は信仰によって生きる」のです。