2023年08月06日・礼拝メモ

永遠のいのちへの水

聖書箇所「ヨハネの福音書4章1~26節」

今日は、有名なサマリヤの井戸辺でのイエス様の御業「主が与えて下さる永遠のいのちの水について」の記事から語られています。4点について。

Ⅰ神の摂理の恵み・・・「しかしサマリヤを通っていかなければならなかった」4節とあります。主は、パリサイ人等の嫉妬の矛先を避けて、ユダヤからガリラヤへ帰る事となった。その道は、中間のサマリヤを通らなければならない。一般的にユダヤの人は、仲の悪いサマリヤの地を避けて迂回する道を行ったが、主は、神の摂理に従ってサマリヤの道を行き、サマリヤの井戸辺にて休まれた。それは、卑しく罪深い一人の女性へ福音を伝える為であった。私共の人生に居たくない環境、会いたくない人、避けたい事柄などが摂理により来る。しかし、信じて従う時、そこが多くの泉ある所となる。
Ⅱサマリヤの女の渇き・・・主は、女の人に「私に水を飲ませて下さい」と声をかけられた。それは彼女の心の渇きを自覚させ、問題解決へ向かわせる為であった。「この水を飲む人はまた渇く」とこの世の与える水は、飲んでも渇きを潤せない。この女の人も5人も夫を変えたが「私には夫がいません」との実情、「私が渇く事のないように・・その水を下さい」と求めた。(危険な事は、霊的渇きへの自覚が無い事)。
Ⅲ主の与える「永遠のいのちの水」とは・・・肉体的な渇きではなく、もっと深刻な霊的渇きについて、①絶えず湧き出て潤し続け満たし続ける。②飲む者に生命を与える水です。主を信ずる者に与えられている水。試練の中でも感謝が溢れてくる。信仰者の生活の原動力であり希望と確信の根拠となる。
Ⅳキリストの渇き・・・「わたしに水を飲ませて下さい」とは、別の意味で、卑しいこの女の人にご自分の渇きが止どまる事を求めた。主は十字架上で「私は渇く」と叫ばれた。この主の渇きを潤すものは?・・。この厳粛な要求は不信仰な者に向けられ、私達が神の御手の中に陥り御旨の中を歩むようになるまでは癒されない渇望を持っておられる。主に「私は渇く」と叫ばれていないでしょうか。何か一つの事に固執していて「主のみ旨のままに」という事が出来ないでいないでしょうか。主が静かに私に飲ませて下さいと、ささやいておられないでしょうか。
豊かな渇かぬ命の水を与えられ、渇きを癒して頂いた者ですが、献身と信仰を新たにして、残る生涯が、主の渇きを癒し潤すまでに聖潔られ、霊的に成長させて頂きましょう。

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