2023年08月20日・礼拝メモ

アブラハムとイサクに見る神の愛

聖書箇所「創世記22章1~14節」 

8月上旬は広島や長崎の原爆投下そして終戦、また日航機墜落事故と、悲しい記念日が続き、日本の風習お盆と共に、愛する人を失った悲しみ痛みを覚える時でありました、今日は、アブラハムの試練の記事。

Ⅰアブラハムの信仰・・・信仰によって神に従い続けて来た彼は、年老いて子供が与えられるという事を望み、神の約束を信じて、百歳にしてイサクが与えられた。彼にとってイサクは希望であり、イサクを通してその子孫を見通し、その繁栄を夢みていたことでした。イサクによって子孫が増し加わるという約束の1人子を献げるとは理解に苦しむ事です。しかし、アブラハムは神の命令にそむかず、従った。翌朝早く彼は・・モリヤの山に向かった。イサクは播祭の子羊はどこにと聞いたが、「神ご自身が備えて下さる」と答え、そしてイサクを祭壇の薪の上に乗せ、葬ろうとした。アブラハムは「イサクを殺しても、神はこれを死人の中より甦らせる」と信じて(へブル11章19節)従った。神は彼が約束の息子よりも神を愛しているかを問われたのであった。神は、神を恐れ、自分の一人子さえ惜しまぬ事を知り、播祭の子羊を備えられた。私共もアブラハムの信仰に倣う者でありたい。

Ⅱイサクの信仰・・・イサクの信仰も更にすばらしい。その信仰は「一貫した服従」に現れています。彼は縛られ、祭壇の上に載せられ、もはや父に殺されそうになったが、そこで彼は無抵抗であった。彼は、全能の神への信仰なくして生命を捨てる覚悟はできなかった。それは彼が父の信仰をそのまま引き継いでいた事実でもあります。信仰は服従に現わされ、イサクは従順の子としてのキリストのタイプであった。

Ⅲ彼らの信仰に見る神の愛・・・アブラハムが愛する一人子イサクを献げたように父なる神は、私共に播祭の子羊として御子イエスを献げられた。実際あのモリヤの山で主は罪の贖いの子羊として十字架で死なれました。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びる事無く、永遠のいのちを持つ為である。」ヨハネ3章16節、神は「神の愛する子」を死に渡されたのです。ですから、神は愛する者を失った人々の悲しみをよくよく知って共に泣いて下さる方です。そしてイエスは、従順なイサクの如く、死に至る迄従われた。ピリピ2章8節。神様は、私共を愛して御子を死に渡された。私共も「私のイサク」を献げる信仰を持って従いましょう。「主の山の上には、備えがあります」。

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