2023年10月29日・礼拝メモ

御座におられる主を見た

聖書箇所「イザヤ書6章1~13節」

10月は、多くの行事が有った。召天者記念礼拝、教団創立記念日、関東聖化大会、そして、10月31日は、宗教改革記念日。ルターは、みことばによる宗教改革をした。信仰の根拠を聖書のみに求めた。私共も聖書を土台にした信仰生活を送らせて頂きたい。本日の聖書箇所はイザヤ書の中で「イザヤの召命」の記事です。イザヤの神経験より語られています。彼は神を見た!とすごい経験をした。時は「ウジヤ王が死んだ年」ウジヤは優れた王で長きにわたりユダを治めた。近隣諸国から恐れられた強い王であった。その王が死に、王座が空虚になり、ユダの国にとり危機的状況であった。この時、イザヤは真の支配者、頼るべき方は、人間ではなく神である事を改めて気づかされる。イザヤは、ウジヤ王の座より、
Ⅰ はるかに高い王座に座しておられる神を見た。王座は主権と支配を意味する。セラフィムが4つの翼で顔と足を覆うほどに王の支配が神殿全体に満ちていた。
Ⅱ「永遠なる方であられた」・・ウジヤ王の死により心が揺らいでいたイザヤにとり死ぬ事のない永遠者なる方を見た事は、どれほどの慰めとなったでしょう。その後の彼のメッセージに永遠者なる方について語られている。私共の目を永遠へ向けさせてくれる。
Ⅲ「聖なる方」・・セラフィムが「聖なる聖なる聖なるかな」と讃美し、4枚の翼で、自分の汚れをおおわずにはいられない。何者も近づきがたい聖さを持って存在される方に触れた時、イザヤは「ああ、私は滅んでしまう」と叫び声をあげた。聖なる光に照らされ、自らの汚れに気づかされる。「この私は唇の汚れた者・・」と、私共は「讃美と呪いが同じ口から出ていないか」神の御用をするにふさわしくない者です。と告白、自らの罪深さに恐れおののきひれ伏した時、祭壇の上からの火が唇に触れ、咎は除かれ、罪も赦された。聖潔られた彼は、神の細き声「誰をわたしは遣わそう・・」を聞き「わたしがおります。・・わたしを遣わして下さい」と燃える心を持ってみことばを伝える者となった。しかし、委ねられた任務は、民の心が頑となるので非常に難しい事を知らされる。そして民の滅亡が暗示される。しかし、聖なる希望も大胆に揚げられる。「残りの切株、聖なる裔」を。
神は暗闇の中にも光と希望を与える。

 

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