2024年03月17日・礼拝メモ

取税人のかしら

聖書箇所: ルカの福音書19章1~10節

ルカ伝19章といえば、取税人のザアカイ、町ではお金持ちで嫌われ者。背が低い事は、生まれながらにしてどうすることも出来ませんが、お金を大部貯めていたように思います。彼は背が低かった事を、心の中に納めて、この競争社会に何とか自分を適応させようと考え、その事に専念できた人でした。何ともユーモラスな事ではありませんか。この木の上から御子イエス様を眺めている。茂みに隠れていたのに、イエス様に見つけられて、場が悪くなった。イエス様に出合ったことが、彼の心を一転させ、一目散に木から下りて、イエス様の招きに応じた事を考えると、本当に子供ポイ所がある人です。「主よ、ご覧下さい。私は財産の半分を貧しい人に施します。誰から脅し取ったものがあれば、4倍にして返します。」それを聞いた人たちは驚いた。イエス様は彼に「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから、人の子は、失われたものを捜して救うために来たのです。」この言葉はルカ伝の鍵のことばです。このザアカイを見ると思います。ここには彼が取税人のかしらになるまでの経歴は書いてありませんが、取税人という肩書きは、自慢するものではありません。しかしイエス様に出会い、自分を救って受け入れてくれたイエス様の前では、この名を誇らしく感謝した事でしょう。前回、マタイ3章から、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと語られました。アブラハムはユダヤ人にとり、民族の頂点人物として、尊敬され、民族の父よと呼ばれた人です。彼が子供を与えられるためには、長い待ち望みがありました。100才のアブラハムは、自分の体がすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって、神の約束を疑う事なく、かえって信仰が強められて、神には約束された事を実行する力がある、と確信していました。だからこそ、彼はそれを義と認められたのです。ただ彼のためだけではなく、私たちのためにでもあるのです。教会に、招かれたお方をしっかり捕えて、今度は招く立場で、主に喜んで頂こうではありませんか。あなたにも出来ます。主は、道ばたの石ころからでもアブラハムの子を起されるのです。(マタイ3:9)本当の招きは誘われてではなく、聖書の真理に目覚めて、なんとしても教会に行きたいと、心の底から目にみえない御父、御子の招きを意識して集うのです。その事が分かると教会は楽しく、また次に行きたいと思うのです。

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