2020年08月09日・礼拝メモ
放蕩息子の譬え―兄息子の不満
聖書箇所:ルカの福音書 15章 11~32節
- 75年前広島と長崎に原爆が投下されました。この恐ろしい原爆が、人類に取って最初であり最後でありたいものです。世界の平和も願うことですが、小さな家庭の平和もそれに通じる事と信じます。
- 「急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。」罪の完璧な赦しを表わしています。「手に指輪をはめさせなさい。」相続者になる事を意味しています。当時の指輪には宝石がついていて、それが実印となったのです。「足に靴を履かせなさい」奴隷でなく自由人を意味しています。弟息子はまさに御父なる神のもとに帰ったのです。
- ところが兄息子はどうでしょうか。畑で働いていた兄が、その日の仕事を終えて家の近くまで帰って来ると、音楽や踊りの音が聞こえてきました。そこで僕の一人を呼んで、何が起こったのかと尋ねました。すると「弟が無事に帰ってきて、父が子牛を屠って喜びの宴を設けている」と言うのでした。彼は面白くありません。家に入ろうともしません。<この不満の背後に何があるのでしょうか>
- 自己義「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」放蕩三昧の弟息子に比べたら雲泥の違いです。「自分が常に正しく、相手がいつも間違っている」その考え方は正しい事もあるが。しかし、全部をその考え方で押し通すと、様々な問題が出てきます。聞き耳を持つゆとりがほしい。「自分が正しく相手は間違っている」この姿勢は角が立つのです。この自己義ほどやっかいな問題はないのです。聖潔の恵みによる解決を求めましょう。