2020年10月18日・礼拝メモ
私たちが救われたのは聖に与らせるため
聖書箇所:Ⅰテサロニケ人への手紙 4章1~12節
- 今日は教団創立記念日です。75年間変わらずに掲げてきた事があります。①聖書信仰、②聖潔(きよめ)の体験、③世界宣教の3つのことを中心に75年間、戦って来ました。その中で今日のお言葉より、②聖潔(きよめ)の体験について語られています。
- きよめの問題は信仰生活全面に関わる問題であります。神のみこころは、あなた方が聖なる者となることです。「私たちが救われたのは、聖に与らせるため」です。クリスチャン生活の隅々まで浸透している恵みであり、エネルギー源です。
- 例話:お父さんの長靴を焦がした娘さん。お父さんが外出する時、靴を暖めて履くのを見ていた娘さんが、暖炉で長靴を暖めた。暖炉に近づきすぎて焦がしたしまった。お父さんは、その娘の気持ちを知って、長靴が損なわれたことなどふき飛ぶほど、その子の愛の行為をうれしく思った。その動機は純粋でお父さんの胸を打ったことです。動機の純潔さ、これを神様は喜んでくださる。愛の完全です。もちろん気が付いた欠点や汚点は、その都度真剣に取り組んで、直して行く必要はあります。
- しかし、地上で可能なただ一つの完全は、動機と意図の完全です。神は結果をご覧になるより、動機と意図をご覧になります。全き献身、全き信仰、全き愛、きよめとは、神と人(自分)がいつも二つの焦点を持つ楕円ではなく、真の円になる事です。神の意図に私たちがマッチして歩むことです。自分の思いや、願いの一点張りから、神のご計画、御思いに、積極的に生きる愛の心です。(ローマ12:1)